こんばんは、鍵野です。
昨日は盆踊りで、夕方から十時過ぎまで公民館前の盆踊り会場にいました。地区でこの一年に亡くなった方の初盆供養がメイン行事なのですが、子どもの頃を思い出すと、出店もたくさんあって、まだまだいろんなお店が現役で営業していて、本当に賑やかなお祭りでした。お小遣いをもらって、いとこたちとみんなで出かけて、くじ引きをしたり、食べたり飲んだり、そして見よう見まねで盆踊りの輪に加わって踊ったりと、とても楽しい特別な時間でした。
今回は伯父の初盆で、ちょうちんの灯りが消えないようにという蠟燭番の仕事もあったので、ずっとゴザの上に座布団をしいて座っていたのですが、子どもの頃とは違って、出店もマルチにいろいろ売ってくれるお店が一つだけで、ずいぶん様変わりしました。
それでも、伝統の盆踊りの輪は夜が更けると共に参加者が増えていって、年季の入った躍り手に先導されるように若い人も踊っていて、まだまだ続きそうだなぁとは思いました。
それで、盆踊りの起源はというと、どうやらお釈迦様の二大弟子の一人、神通第一のモッガラーナ(目連)尊者に由来するようです。モッガラーナ尊者が、その神通で亡くなった母が餓鬼道に堕ちているのを知って、それを救うにはどうしたらよいかとお釈迦さまに尋ねたところ、十方の僧に供養・お布施をすればいいとおっしゃったとか。
もともとたくさんのお坊様へのお布施という話が、どういうわけで、たくさんの人で踊ることで、亡くなった方が餓鬼道から救われるように、供養するという話になったんでしょうかね? 面白いですね。きっと、もともとの日本人の先祖供養の話と仏教の話が融合されて、それなりにしっくり来る形になっていったんでしょうね。
ということを思いながら、お釈迦さまがやめておきなさいとおっしゃったアルコールでいい感じになっている人がたくさんいる中、少しですが座る瞑想でのヴィパッサナー実践をして、餓鬼道に堕ちているかもしれない生命に向けて、回向しました。
さて、アドラー心理学の話なんですが、今日は「夢」について考えてみたいと思います。将来の「夢」とかではなく、寝ているときに見る「夢」の方の話です。夢判断と言えばフロイトですが、アドラー先生も夢について書いていて、その人の人生のサバイバル戦略、人生の方針、「ライフスタイル」ですが、これが「夢」を分析することでもわかるんですね。鍵野はまだ夢を材料にしたライフスタイル分析に本格的に取り組んだことはありませんが、人の行為のすべてにその人のライフスタイルが表れているわけですから、そりゃぁ、夢からでもわかるだろうなぁとは思います。ただ、他に材料がないのならともかく、夢よりは、早期回想の方が、相談される方にとっては現実の話なわけで、扱いやすいし、一緒に分析していきやすいので、わざわざ「夢」について聞くことは滅多にありません。
でも、現実の方が扱いに困るような場合、小さいころのことを思い出すだけでも膝ががくがくしてしまって脂汗が出てくるといような方だったら、むしろ、それって現実じゃないよね、の了解が得られている「夢」の方が扱いやすいかもと思ったりもします。まぁやればできるとは思います(笑)って、すぐ調子に乗るのは、鍵野のライフスタイルなんですが、まぁ許してください。これで人生なんとかかんとかここまでやってこれたので(笑)。
みなさんどうですかね? 夢ってそのときの自分の人生の状況をよく表しているような気がしませんか? アドラー先生によれば、夢の中でシミュレーションして備えているらしいです。勇気が十分あって貢献的に生きていれば夢は見ないんだ!ってアドラー先生はどこかに書いてました。私は夢をみないんだと、ドヤ顔(笑)。どうなんでしょうね?
それから、これはたしか野田先生がどこかでおっしゃっていたと思うのですが、夢で、感情を使う訓練をしているんだという話もあります。現実生活であまり使わなくなっている感情をいざというときに使えるように、夢で出してみていると。そういえば、内容は覚えていないけど、なんか目が覚めたら、怖い夢だったのは確かで、ドキドキ心臓が鳴っているなんて経験もありますね。
思い返せば、そのときそのときで、よく見る夢というのはありました、たしかに。鍵野は勉強が好き過ぎて(笑)、大学院でもないのに8年も大学に行ったのですが、除籍ギリギリでなんとか卒業したのでした。それで、卒業してずいぶん経っているのに、単位が足りなくて卒業できない、科目登録自体が間に合っていない、留年というか除籍決定!というような悪夢を何度も見ました(笑)。
他に定番の夢で思い出すのは、小さいころ、熱を出すときによく見た気がするんですが、坂をどんどん上っていっててっぺんの方にいるんですが、なぜか坂がどんどん上がってきて勾配がきつくなっていって、しがみついてもズルズルと下にすべっていってしまって、なんかアスファルトがカーペットの巻いたような感じになっている下の方に吸い込まれていくというような夢を見て、ハッと目が覚めるというのがありました。なんか、無理してたんでしょうね…。いつの間にか見なくなりましたが。
あとは、大事な人を連れて急いで逃げなきゃいけないんだけど、細い路地で、分岐の行く先々に猛犬がいて、鎖につながれてはいるんだけど、その鎖が長くて、こちらに飛び出してきそうで、躊躇していると噛まれそうな感じ。もたもたして迷っている余裕がない、どんどん先に行かなければというような夢。これはサラリーマン時代によく見た気がします。いろいろ追われてたんだなぁ…次から次に瞬時に判断して行動していかなきゃという強迫観念にとらわれていた気がします。もうしばらく見てないですね、こういう夢は。
ここ数年で見る夢で覚えているのは、たいてい大型バスに乗る夢ですね。乗ろうとして向かってるんだけど、バスにたどり着けなかったり、バスはみつけたんだけど、バスがたくさんあって、どれだかわからなくて乗れなかったり、乗ったんだけど違うバスだったりと…。これ、何か今の自分の状況を表しているんでしょうね、きっと。
アドラー心理学の理論から言えば、夢を見るのも目的があるからで、シミュレーションだったり訓練だったり、全体としてそういう夢を見ることに決めているんですが、一応、現実ではあったはずの思い出にしても同じことで、そういう思い出を覚えておくことで、自分を勇気づけていたり、危険を避けていたりなどなど、サバイバルに役立つ(と思っている)目的があるわけです。
なので、夢にしろ、思い出にしろ、それはライフスタイルに適合しているから、見ているんだし、憶えているわけで、それなら、そこからリバースエンジニアリングではないけども、当然ライフスタイルが見えてくるよね、というのがアドラー派の理屈です。
で、見えるとどういいのかというと、それまで無意識的だったライフスタイルを意識下に置くことで、ライフスタイルのままに行動すると具合が悪そうなときに、そう望めば違う行動を選択できるようになるというところです。
ちょっと恥ずかしいですが、鍵野の具体例を挙げれば、「ここでこんな質問をしたらきっと賢いはず、いいね自分!」と思っても、「いやいやいや、せっかくの貴重な質問の時間、もっと切実に先生から学びたい人に譲ろう。賢いアピールしたから賢くなるわけじゃないし(笑)」と、それまでの自分なら本当に知らないことを知りたいというよりも、「知ってるで!」をアピールしたくてする行動を抑えることができるようになりました。
逆に、質問の時間が十分あって、他の人も質問していない、しそうにないとき、自分はまぁわかってるし、確認しなくてもいいようなものだけど、きっとあそこはもう一度押さえておいたら、誰かの役に立ちそうだなぁ… 聞いてみるか、という感じで、先生に質問することもありました。アピールしたいって気持ちがないと言えばウソになるけど、でも、まぁみんなのためにもなるよね、という判断を入れてから行動できるようになった。少しは大人になったかも(笑)。
わかってしまうと、幼いなぁ…と恥ずかしくなりますが、たかだか5歳の自分が作ったライフスタイルでやってることだからしょうがないですよね(笑)。そうやってライフスタイルを意識しながら、具体的な行動を変えていくことで少しずつ成長していくしかないなと。
夢の分析、一緒にやってみたいという方は遠慮なく言ってくださいね。普通のカウンセリングと違って面白いかもしれませんし、新たな発見があるかも。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよいお盆休みをお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。