こんばんは、鍵野です。
今日は地震があって大分県佐伯市は震度4くらいということでしたが、警報のサイレンに、避難しなくてはと身構えました。海からすぐ近くなので、やっぱり津波ですね気にしてるのは。最近、避難バッグの中身の鯖缶を入れ替えたんですよね。賞味期限を2年くらい過ぎてたようだったけど、缶も膨らんでないし、古い方は美味しくいただきました。鯖缶って、アドラー心理学なんですよ。どこが?「裁かん…」お後がよろしいようで…、って冒頭からすみません(笑)。
でも、冗談ではなくて、自助グループでもカウンセリングでもなんでもかんでも、アドラー心理学の実践というのは、自分の正しさで相手を裁かないでいられるようになることなんですよね。
人とコミュニケーションしていて陰性感情を感じるのは、「これは正しくない、あってはならないことだ」と自分の価値観でその事態を判断しているからです。
それで、自ら生み出した陰性感情をエネルギー源にして、その「正しくない」事態を自分にとって「正しい」事態に変えるために人は行動します。この行動を「エピソード分析」では「対処行動」と言いますが、これはいわゆる行動だけではなく言ったことも含みます。言ったことややったことですね。
それで、その人にとって「正しい」事態に変えることができれば、問題は解決するわけで、それならカウンセリングはいらないんですが、世の中自分の思い通りになることなんて滅多にないので、みなさん悩むわけですね。「私が正しいに決まってるのに、なんでこの人はわかってくれないんだろう?」って思ってるんですが、そういう相手も同じように自分が正しいと思って行動していますから、こっちの正義とあっちの正義がぶつかり合って、大変なことになってしまうんですよね。
相手を裁き合ってるわけです、お互いに。「誰が聞いても私が正しいと思うと思うんですけど…」というような前フリをいろんな方から何度も聞いたことがあります(笑)。気持ちはわかります。でもそんなはずはないんですね。だって、それが正しかったら争う余地がないですもん。「地球は丸いって認めないんですよ、うちの人、それで頭来ちゃって… 信じられます?」というような相談は今のところまだありません(笑)。
ただ「常識」、アドラー心理学用語で言うと個人の価値観である「私的感覚」との対比で使われる言葉である「共通感覚」というのがあって、「誰が聞いても私が正しいと思う」というのは、日本人の共通感覚でしょ? 当たり前ですよね? と主張されているんだと思います。たしかに多数決をすれば、どちらの正しさが「共通感覚」に近いかという結果は出せるんでしょうけれど、でも、それも投票した人の「私的感覚」の統計的な結果が出たというだけの話で、正しさとは何の関係もないんですよね。
なので、あなたが多数派なのか少数派なのかは知ることができるかもしれないけれど、でも、やっぱり「自分が正しい」と主張することはできないんですよね、どこまで行っても。
そもそも、その「正しさ」の元がどこにあるのかというと、アドラー心理学では、5歳~10歳くらいまでの間の対人関係の中で、そこに、その社会に所属するために、最も有効だとその子が判断して採用した根本的な価値観、アドラー心理学用語で「私的意味づけ」と言いますが、その人の人生のサバイバル戦略である「ライフスタイル」の核心になる価値観にあります。
その「私的意味づけ」は、子どもの頃に最も有効だったからこそ採用されたわけですけれど、その後の長い人生の中でずーっと有効であり続けるとは限らないんですね。だって、付き合う人間が変わっていきますからね。
それでも、私たちは、せいぜい5歳の頃に決めた価値観でもって、世界を人々を自分を裁き続けて暮らしています。世界や人々や自分が「正しくない」と思ってしまったら、怒り、悲しみ、不安、後悔、落ち込みなどの感情を使って、世界や人々や自分を「正そう」とがんばってしまうのが人間という生き物の習い性になってます。かく言う鍵野もそうなわけで、アドラー心理学に出会えたおかげで、「ああ、またやってるな」と大人の目で自分のライフスタイルを眺めることができる瞬間があって、そういうときには、「もう5歳じゃないんだ…」とムキにならず、世界を裁かず、相手も裁かず、自分も裁かず、相手と折り合えるところを目指して行動することができるようになりましたが、これはライフスタイルを知ることはもちろんですが、知ってるだけじゃダメで、大人になるにはそれなりに訓練がいることではあります。
だいたい、自分が正しかったら価値観はいらないんですよね、いちいち価値観で判断する必要ないですもん。判断するということは、もうその時点で正しくないのが決定してるんですよね。せいぜい自分の好みに合うか合わないかというだけのことで。
それでも、その判断を手放す境地に至りたいものではありますが、まだまだ精進が足りないというか、どうしても判断なしには暮らせないのが私たち凡人の暮らす世界ではあるわけで、それなら、どうせ正しくない、間違っているんだけど、この目の前の人と協力して、この目の前の人もどうせ正しくない、間違っているんだけど、でも、互いに納得できる判断というのは不可能ではないわけで、それならそこを目指しましょうよ、というのがアドラー心理学ですね。
もう相手も自分も裁くのはやめようと。それは無理やと。だってみんな正しくないんだから、みんな5歳の頃の価値観を後生大事に持ち続けて、身体だけ大人になっただけなんですから、そんな自分が誰かを裁くことなんてできるわけないですもん。
それで自分が正しくないというのを認めてしまえれば本当に楽ですよ。その正しくない自分がただ好きだからやっているに過ぎないことに誰かが腹を立てても「そりゃぁそうだなぁ」と思えるし、中にはそれを認めて感謝してくれる人もいて、こんなにありがたいことはないですよね。
ひとつ気をつけなきゃいけないのは、「自分は正しくない」はそれはそうなんですが、これを自分を裁くのに使ってはいけないということですね。世の中には自分を自分で非難する、裁くのが好きな人がいて、「ダメだ、ダメだ、こんなんじゃダメだ」とかですね、とにかくネガティブに自分のやることなすことけなすのが得意な方がいらっしゃいます。あれは、じつは「自分は正しくない」のフリをしてめちゃくちゃ「自分は正しい」を追及している人なんですよね。だって、「自分は正しくない」と判断できる自分は、その瞬間、もの凄く「正しい」人になれてますから。
だから、なんかパラドキシカルですけれど「自分は正しくない」「相手も正しくない」は正しいんですね。それは真理であり事実と言っていいと思います。なので、「正しくない自分は、ダメだ」とかネガティブに価値を入れて判断するのではなく、また「正しくないことがわかっているオレっていいね!」とポジティブに価値を入れて判断することもせず、ただの事実として「自分は正しくない」「相手も正しくない」ことを冷静に受け入れるだけでいいんですね。そりゃそうだよねと。
それで、どうしたらいいんだと。裁き裁かれる関係から卒業して、自分も相手も「好きだからやってるだけや」、「自分も相手もみんなも幸せに向かうにはどうしたらええのかな?」と肩の力を抜いて少し大人になって判断しながら暮らしていくことを目指したらいいのではないかなと。
もちろん、幸せに向かったつもりなのに、間違うこともあります。鍵野もしょっちゅう間違います。でも、もともと正しくないんだからしょうがないです。間違ったのがわかったら、あとはリカバリーですよね。できるだけのことをして、傷ついた人がいたら謝る、壊れたものあったら原状回復に努める、そんなことをしながら、お互いに、「悪気はないんやから」と間違いを許し合いながら暮らしていけばいいのではないかなと思います。
いまだ津波注意報が発令されているんですが、いざというときには鯖缶でサバイバルします(笑)。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。