アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

カウンセリングは異文化コミュニケーション

こんばんは、鍵野です。
明日からお盆まで、かなり忙しくなる予定なので(あくまで自分比ですが(笑))、アマゾンの部族ピダハンについて書かれた本 "DON'T SLEEP, THERE ARE SNAKES LIFE AND LANGUAGE IN THE AMAZONIAN JUNGLE" DANIEL L.EVERETT著に集中して、読み終わりました。邦訳は『ピダハン――「言語本能」を超える文化と世界観』ですが、いやぁ、よかった! 読んでよかった。アドラー心理学の本とは違って、知らない単語がたくさん出てくるので、スマホで意味を引きながらになりますが、久しぶりのエキサイティングな読書でした。


人類に共通の文法、普遍文法があるというチョムスキーの主張が間違っていることがよくわかりました。文法ありきではなく、そこで人がコミュニケーションしながらサバイバルしていくために必要な文法ができるんだと。


ピダハン語には、右も左もないんですね。だから右手、左手とか言わない。自分視点で方向を定位するシステムはない(いらないんでしょうね)けど、川(アマゾン川)に対して上流か下流かという視点で暮らしているんです。だから、例えば、川の上流側の手と下流側の手という区別はするんだそうです。そして、ピダハンの人たちを街に連れて行くと、真っ先に川はどこにあるのかと聞くんだそうです。なるほど~、と思いました。カーナビも北が上に固定された視点だとわからなくなってしまう鍵野なんかは、アマゾンではすぐに迷子になりますね。どこへ行っても東西南北がすぐわかる人がいて、凄いな~とビックリしてしまうんですが、あれロケーションシステムが根本から違うんでしょうね(笑)。


直接経験したことを大事にするという原則があって、それでピダハン語には再帰構造がないんですが、そこが具体的にチョムスキーの普遍文法で言われている人類の言語には再帰構造があるのと反しているんですね。再帰というのは、マトリョーシカ構造と言ってもよくて、文の中に文を組み込んでいく構造のことです。プログラミングで言えばサブルーチンですね。例えば、「男が家に来た。その男は背が高かった」と「背の高い男が家に来た」は同じ状況を表していますが、後者のような文を再帰構造を有していると言いますね。ピダハン語では、前者の言い方しかしないんだそうです。


それでもですね、これは本の中に書かれている例文を訳して紹介しますが、「ダンが買った釘を戻しなさい」という文があったとして、ピダハン語には再帰がないので、こういう言い方はできません。で、どう言うかというと「釘を戻しなさい。ダンがその釘を買った。それらは同じものだ」と3つの文で言うんだと。で、結局、文脈的には同じことが言えているので、そうすると再帰構造って普遍的に絶対必要なものってわけじゃないんじゃないかと。


たしかになぁ…、でも、言えはするけど、面倒な気がするので、あんまりごちゃごちゃと複雑なことは言いたくなくなる気がしますね(ブログは書けそうにない(笑))。なので、ピダハンの人たちはきっと思考・妄想がグルグル頭の中を駆け巡るというようなことは少なくて、それで平和でいられるのだろうなぁとも。


ピダハンの人たちには「不安」という言葉もないんですね。それで著者がキリスト教を伝道しようと思って行ったんだけど、満ち足りていて、幸せそうなこの人たちから、お前のことは好きだけど、イエスは好きじゃない、いらないと言われてしまうんです。著者のエヴェレットがキリスト教を信仰するようになったきっかけに、継母の自殺があったそうなんですが、その継母の自殺の話をピダハンの人たちにしたとき、信じられない反応をされたんですね。みんなゲラゲラ大笑いし始めたんだそうです。面喰うわけですが、後から聞いてみたら、だって、いつだって死の危険が至るところにある世界で暮らしていて、いつ死ぬかわからないのに、自分から死ぬなんて、大バカ者だと。


そして、ピダハンの人たちに「イエスに会ったことあるのか?」「会ったこともないやつの言うことをどうして信じるんだ?」と聞かれて、自分の信仰に疑問を持つようになりました。そして、エヴェレットはキリスト教が神が信じられなくなり、ついには信仰がなくなったことを周りの人たちこれまで支えてくれた人たちに正直に伝え、伝道の同志でもあった妻とも別れることになります。


ピダハンの人たちには創世神話もないんですね。儀式もない。でも精霊の存在は信じているというか、実際に見えるんだと。樹々を揺らしているのは精霊が揺らしているんだと。精霊は、他の部族が襲撃に来るとか、ジャガーが襲ってくるとか、外人がやってくるとか、警告を発する存在でもあります。きっと、ピダハンの人たちがジャングルでサバイバルしていくのに必要なことなんでしょうね。


で、ここまでが前置きで、アドラー心理学の話なんですが、カウンセリングでやっているのも、ピダハンの人たちとのギャップほど大きくはありませんが、でも、同じ現代日本人同士だとしても、一人ひとり見ている世界感じている世界が違うんだというところから出発するのが大事という意味では同じなんですね。


同じ言葉を使っているだけにかえってお互いにわかっていると誤解してしまうという意味で、違う言語をしゃべる人たちとのコミュニケーションより難しいところがあるとも言えるかもしれません。


例えば、

カウンセラー:それで、そのシーンなんですけど、どこが一番印象に残っていますか?
相談者:そのときの妻の顔が………
カウンセラー:顔が?
相談者:恐ろしかったんです…
カウンセラー:そうなんですね(そりゃぁ恐ろしいわなぁ…うちのも食いつきそうな顔するからなぁ)。

って、これはダメですよね。やっぱりもう少し話してもらいたいところです。


例えば、

カウンセラー:それで、そのシーンなんですけど、どこが一番印象に残っていますか?
相談者:そのときの妻の顔が………
カウンセラー:顔が?
相談者:恐ろしかったんです…
カウンセラー:「恐ろしかった」っていうのをもう少しお話いただけませんか?
相談者:え? そうですね… なんか…冷たいっていうか そばに来ないでって、ポーンと突き放されたような…

という展開になるかもしれなくて、いろんな方のお話を聞いていていつも思うんですけど、言葉は同じでも、その言葉が指し示す具体的なイメージは本当に人それぞれなんですよね。この例で言えば、「ポーンと突き放されたような」というイメージは、きっとその人にとって強く劣等感を感じることかもしれなくて、だとすると、この後に…

カウンセラー:あの…、どんなことでもいいので、何か小さいころの思い出についてお話いただけませんか? 
相談者:思い出ですか? うーん、なんかあんまりいい思い出がなくて…
カウンセラー:どんなことでいいんですよ、本当に。そんな大げさなことじゃなくて、ちょっとしたできごとで構いませんので。
相談者:そうですか… うーん… あっ、小学校三、四年の頃だったと思うんですけど、仲のいい友達がいたんですよ。で、その日も普通に遊んでたはずなんだけど、なんか急にその子の態度が変わって… なんか言ったのかなぁ? それからケンカってわけでもないんだけど、なんか変な感じになってしまって… あっそうだ、思い出してきたぞ。その日テストが返って来たんですよ。その子は頭が良くて、いつも90点以上取ってたんだけど、そのときは私もなぜかいい点数で、100点近かったのかな、で、ついつい自慢するわけじゃないけど、その子に見せたんですよ… そしたら…

というような早期回想を使って、その人のライフスタイルにある、こわばりポイントを探れたかもしれないなぁと。まぁこれは架空の事例ですけど、でも、よくある展開でもあります。アドラー心理学によれば、人は、登場人物や具体的なイベントは違っても、同じ物語を延々と繰り返しながら暮らしている生き物ですから。


だから、話を聞いて、「わかる、わかる」と思った時が一番危ないので、きっとこの人も同じだと勝手に自分の色眼鏡を押し付けてるだけではないかなと、いつも疑ってかかることは大事ですね。根掘り葉掘り、いちいちの言葉に引っかかっていては時間がいくらあっても足りないし、相手も自分も集中力が切れて疲れてしまいますから、ポイントポイントで、その人らしい感じ、その人が大事にしている価値観を反映してそうな言葉にはあえて物分かり悪く、「それのどの辺が都合が悪いんでしょうか?」「それのどこら辺が嬉しんですか?」とか聞いてみると、「え?(そんなの当たり前やん!)(わかるやろ?)」というような反応が返ってきて(なぜか関西弁、アドラーの本場だからかな(笑))、それでもとぼけて教えてくださいという感じで聞けばですね、「…(しゃぁないなぁ、誰かてそうやのに… でも、そうでもないんかな?)やっぱり…」という感じで教えてくださいます。


そういうのを捉えておけば、なんでこの人がこの話に困っているのかがわかります。すると、アドラー心理学の公式に当てはめて、協力的な方向に向かえるようにこの話を読み替えるためのお手伝いができるようになります。いろんなところをベタベタ触ると変わるもんかとかえって頑なになってしまうものですが、ここだよねというポイント、その話の梃子になる支点が見えるという感じですね。


なので、鍵野はアドラーカウンセリングは、じつは異文化コミュニケーションなんだ、アドラー心理学の理論と思想に沿ったフィールドワークそのものだと思っています。


その人の世界が、語ってもらううちに漏れ出てくるたくさんの言葉の中に、何か光を帯びた言葉があって、その言葉のその人の中での座標を確認しながら、その点と点を結んでいくと、オリオン座とかカシオペア座といったような星座になって、その人が見えてくる感じですかね。大事なのは、あくまでその人の語り、その人の世界から離れずに、個々の言葉を定位することで、あれはきっとおおいぬ座シリウスだ、そうに決まっていると、自分の知っている星座に当てはめて、ないはずの星を無理矢理発見しないようにしないとですね。

 

そういえば、昔、文化人類学もとても興味があったんでした。それで、あらためて、哲学、生物学、社会学文化人類学などなど、様々な人類の知恵が具体的な実践の学として結実しているアドラー心理学っていいなぁと思いました。深くて広いのに実にシンプル。


まだアドラー心理学に出会っていない方はぜひ、一度学んでみてください。あなたがこれまでどんなことを学んできたとしても、アドラー心理学の知恵と関連づけて「そっか!そうだったのか!」と気づかれる何かをきっと見つけられるに違いありません。あんなに複雑そうに見えたものが実にシンプルに見える体験を、ぜひあなたも。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。