こんばんは、鍵野です。
コーヒーを飲まないのが当たり前になって、あまり気にもしなくなっていたのですが、カフェイン断ちをしてもう三ヵ月になります。最近はカフェインレスの紅茶、特にラベンダーの香りのするのがあって、それが気に入ってよく飲んでいます。ルイボスティーは気づいたらあまり飲んでなくて、まだまだたくさんあるんですが減ってません。飲めるけどそんなに好きじゃないかも。小豆茶とそば茶は割と好きで、結構減りました。でも、暑くなると、やっぱり冷たい麦茶ですよね。のども潤ってスッキリします。
カフェイン断ちの効果ですが、最初の頃に感じたところから、これと言って変化はなく、一日を通じて緩めのテンションで安定している感じですね。暇になっても、何かしなくてはと急き立てられることもなく、落ち着いて暮らせているのは、きっとカフェイン断ちの効果だと思います。寝つきも目覚めもよく(これはもともとかも)、体調もいい状態が続いています。豆を挽いてコーヒーを淹れるという動きがなくなったのが、楽になったような、ちょっと寂しいような気もしないでもないですが、このまま特に意識することなくカフェインのない暮らしを続けていきそうです。コーヒーミルと結構残ったコーヒー豆も、聞いてみたら欲しいというので、息子にあげました。
家ではいいんですけど、外に行ったときに飲むものに少し困ることがあります。スタバならディカフェがあるからいいんでけど、よくお世話になっているジョイフルには、ディカフェのコーヒーはないようで(ロイヤルホストにはありますが、ちょっとお高いですしね、あそこは)、ドリンクバーでこれまではコーヒー一択だったのに、オレンジジュースとか、ジンジャエールとか、ときどきココア(少しカフェインあり)をいただいてます。お客さんのところだとちょっと困りますが、でも、最近はペットボトルとか缶とかで出していただくことも多くて、その場合は持ち帰って、誰かにあげると喜ばれたりして、それもまたいいかなと思っています。
それで、今日は「引きこもり」について考えてみたいと思います。いろんな定義があるようですが、ここでは「家族以外との交流が失われている」状態が6ヵ月以上続いていることを「引きこもり」と捉えて進めます。混同してしまいがちですが、「不登校」や「ニート」であっても、家族以外の人との交流があるのであれば「引きこもり」とは言わないということですね。もちろん、不登校かつ引きこもり、ニートかつ引きこもりの人もいるわけですが。
「引きこもり」というと、親子で暮らしていて、そこで子どもが引きこもっているというイメージがありますが、そうとは限らなくて、親元を離れて一人暮らしを始めた大学生なり新社会人が「引きこもり」状態になるというのもよく聞く話です。
いずれにしろ、人は食べないと死んでしまうので、「引きこもり」状態の人は、食料は確保できる状態で引きこもっているわけですね。あと水もですが。そういう意味で、無力な人たちではなくて、食料と水、ライフラインを確保する能力はある人たちだから、「引きこもり」という状態を選べる、引きこもれているんだとも考えられますね。
そういう意味で、親と暮らしているのであれば親を、一人で暮らしているのであれば、宅配業者の人とか、コンビニやスーパーの店員さんとかを命綱にできているという意味での、人への信頼は確保されているわけですよね。
アドラー心理学では、人のすべての行動には目的があると考えますし、その究極の目的は社会への所属ですから、なんだかおかしな感じではありますが、「引きこもり」をしている人たちは、社会に所属するために、社会参加を避けていることになります。
つまり、家族以外の人と交流しない方が、社会に所属できると思って「引きこもり」を選んでいるんだと。いや、家族以外の人と交流すると、ますます社会に所属できなくなると思って、それよりは「引きこもり」を選んでいるんだと言った方がわかりやすいかもしれません。
鍵野自身は引きこもった経験がないので(家で一人でいるのは実に快適で、傍から見れば中高年「引きこもり」に見えなくもないでしょうけれども、仕事があれば出かけるし、喜んで仲間に会いに出かけたりもするので、定義には当てはまらないようです)、見聞きした例の中で、公開情報として出ている、「ルネッサーンス!」で一世を風靡したお笑いコンビ髭男爵の山田ルイ53世さんの話が参考になるなぁと思ったので、二次情報ではありますが、ご紹介したいと思います。
山田さんは、中学二年から二十歳まで引きこもっていたそうです。短期間の受験勉強で神戸の名門中学に合格し、担任の先生からは東大合格間違いなしとまで言われてたそうで、ご自分でも、「神童ちゃうかな」と思っていたそうです。遠距離通学に部活もこなし、優等生として頑張り続けてきたのが限界だったのか、ある不幸な事件から学校に行けなくなってしまったと。途中、近所のコンビニでバイトをした時期もあったけれど、小学校時代の同級生に目撃され、あの有名中学に行った山田君がなぜ?と聞かれて、「もう勉強全部終わったからバイトしてるんだ」と答えたとか。
神童感(ご本人の言葉)があったので、いつでも同年代のやつらには追いつけると思っていたけれど、二十歳、成人というのがとても重くて、それでこのままじゃダメだと、引きこもりをやめる契機になったそうです。
引きこもり中は、20~30もの強迫的な儀式、ご本人曰く「地獄のルーティーン」をこなしてから、運よく?それを全部こなせたら、勉強にとりかかっていたそうです。引きこもりをしていた本人は、周りが思うほど暇ではなく、一日中いろんなことを考えていて忙しかったそうで、すぐに一日が終わっていたと。そうですよね、人間は思考・妄想していたら、あっという間に時間が経ってしまいますから。
それで、インタビューを受けてきて、「その引きこもりの時期があったからこそ、今の山田さんがあるんですよね」的な、美談にしないと気が済まないような言われ方がすごく嫌だったそうです。ご本人曰く、「その6年間は無駄だった」と、本人がそう言うんだからいいじゃないですかねぇ。これ、アドラーカウンセリングでも大事なところですね、無理にポジティブに持っていくとかえって勇気くじきになってしまうっていうのは、あるあるです。
でも、まぁ、その6年間があったからこそ、そうやってインタビューを受けたり、本を出版されたり(結構売れたそうな)というのは事実ですよね。無駄ではなかった(笑)。もしカウンセリングだったら、「その6年間は無駄だった」と言われたら、「そうなんですね… ところで、最近本を出されたそうで…」とか、さらっとそういう事実確認をしてみて、どんな反応をされるかそれを待ちたいところかなぁ。
それで、山田さんのお話ですごく印象に残っているのが、「親には親の人生があったなぁ… そこは申し訳なかったなぁ。趣味とかやりたいこともあったろうに…」、「お子さんが引きこもってても、親御さんには楽しんで欲しいんですよね」というところでした。これも、そうだよねぇと思いますねぇ。野田先生も似たようなことを本で書かれてたと思います。たしか不登校での話でしたが、子どもが不登校になったら、よかった安心して出かけられるわ、留守番お願いね、と出かけたらいいって(笑)。
興味が湧いた方はぜひ、ご本人がお話されているYouTube動画などをご覧ください。「山田ルイ53世 引きこもり」で検索したらすぐ出てくると思います。
アドラー心理学の目的論、そして、その究極の目的は「所属」というところに戻って、考えてみたいんですが、山田さんの「優等生」であり続けることや自分の「神童感」を維持していくことが、社会への所属になくてはならないことと信じ込んでいたら、それが崩れてしまうようなことは、自分が社会に所属できなくなる、社会的に死んでしまうことを意味するわけで、もう足下から世界が崩壊するような恐怖を味わわれたことと推察します。それを認めるくらいなら、それを自分に証明してしまうくらいなら、引きこもりながら「オレって神童だもんね、本当は」という幻想を維持していく方を選ぶのが人だと思います。少しくらいズッコケてても、みんなの仲間でいられる、社会に所属できている実感、自信がある人なら、そんな毎日の地獄のルーティーンに挑みながら、暮らしていくようなイバラの道は選びません。
程度の差こそあれ、それはみなさん経験があることではないでしょうか。自分の描いた理想のイメージが崩れるのが怖い、だから、それが露呈することは避けるというようなことは。
鍵野もありました。いろいろありますが、大きかったのは、大企業サラリーマンを辞めて経営コンサルタントとして独立したことですかね。当時、大企業の本社の経営企画にいて、新規事業を企画して起ち上げるような仕事をしていたんですが、新しく来た上司に自分がこれはと思って進めていた事業を頭ごなしに否定されたんですね。全然ダメだと。その企画はボツになってしまって、チームも解散して、それで、きっとそこへのリベンジ的な感じもあって、辞めてやる!的な勢いで、東京から大分に引っ越して、起業して、起業したい人たちを応援するような仕事を始めたんですね。引きこもる方向とは逆に見えますが、目的は同じだと思います。大企業に残って、自分の失敗を認めて、謙虚に、新しい上司の方向性に会うような企画を考えるだけの根性はなくて、逃げ出したと言えば逃げ出したと言えるかもしれません。まぁ、そういうライフスタイルと言ってしまえばそれまでですが、自分で自分を諦めたくなかったので、新しいことができるって証明したかったんでしょうね。自分の失敗を認めない(失敗を認められる人は、今回やったことが失敗したのであって、自分が人間としてダメ、人間として失敗という意味ではないと認めることができる)という意味では、引きこもりを選ぶ人たちと変わらない気がします。まぁ、もともと自信過剰で図々しいので、社会と関わっていく方向にベクトルが向いただけで、所属を目指して動いているという意味では変わりません。
自分の自分への期待が大きければ大きいほど、失敗したときにそれを認めるのが怖くなって、それで、極端な行動を選びがちなのではないかなと。そのベクトルが内に向くか、外に向くかの違いはありますが、人に迷惑をかけるのは変わらない気がします。実際、鍵野が大分で自営業を始めたことで、元妻も、子どもたちも、大変な実際的な迷惑をたくさん受けたと思います。東京暮らし都会暮らしが大好きだった元妻は、知らない大分で東京に比べたらやっぱり田舎ではあるところで暮らさなきゃならなくなったし、子どもたちも、特に息子は、仲の良い友達と離れて、転校して、最初の学校では(大分に来てからも二回引っ越してます)なかなか馴染めずに苦労したようだしですね。親父の我儘で、引きこもりと逆方向で、家族を引きずり回した感じですね(笑)。相談したとは言っても、もう結論を出していて報告するだけの感じで、言い出したら他の人の話は聞かないのは知っていたし、あきらめてついてきてくれたのでした。本当に申し訳なかったなぁと反省しています。まだアドラー心理学を知らなかったので勘弁してください(笑)。
アドラー心理学を学べば、そんな極端な形ではなく、もっとマイルドに、周りの人にも受け入れてもらいやすいような所属の仕方を工夫できるようになります。アドラー心理学を学んでいたら、今も東京でサラリーマンしてるかな(笑)。いやいやいや、反省はしてるけど、後悔はしてないんです。それはそれで自分と家族の業というか、それがあったからこそ、アドラー心理学に、野田先生に出会えたんだと思っています。なので、それは無駄ではなかった(笑)。大分に来てよかったです。
社会への所属って、本当に人それぞれで、様々な形があると思います。「引きこもり」状態にある方も、本人もご家族も、今はその状態で社会に所属してはいるわけです。それが嫌なのであれば、他の所属の仕方を、その気になればいつでも選び直すことができます(個人の主体性)。ただ、自分の固定概念というか、自分はこうあるべきという理想(ライフスタイル)が、その選び直しを邪魔するので、その理想も思い込みに過ぎないこと、それがきつすぎるのであれば適応しやすいように緩めることもできることを、アドラー心理学を学ぶことで実感、体感して欲しいなぁと思います。
ということで、「引きこもり」状態を変えたいと願っている方と出会えることも期待しつつ、これからもいろんな機会をみつけて、講演とか、勉強会とか、カウンセリングとか、鍵野のできる範囲で、アドラー心理学を必要とする方にアドラー心理学をお伝えしていきたいなぁと願っています。
九州内であれば呼んでいただければ、基本、どこにでも参ります。お時間、ご予算(ボランティアベースも可)、内容、できるだけご要望に合わせますので、お気軽にお声がけください。あとどれだけこの世にいられるかわかりませんし、少しは恩返しをしていきたいなぁと思っています。
読んでいただきありがとうございます。
みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。