アドラー心理学で一緒に考えてみませんか

アドラー心理学カウンセラーの鍵野が気になったことのあれやこれやを綴ります

大好きな娘に相談された話

こんばんは、鍵野です。
連休は(平日もたいていのんびりしてるんであまり関係ないんですが)、珍しく(笑)、カウンセリングと経営コンサルティング両方の仕事があって、結構な時間、思考してました。人間、思考・妄想が好きなので、まさに渇愛というか、放っておくとどんどんどんどん思考・妄想したくなりますね。いかん、いかん!(と言いながらこうしてブログを書いて思考・妄想を楽しんでいるわけですが(笑))


お釈迦さまの瞑想、ヴィパッサナー実践をすると、デカルトの「我思うゆえに我あり」というのが嘘でもあり本当でもあることがわかってきます(小6のとき図書室で方法序説を読んで、この世の秘密を知ってしまったというような衝撃を受けたのを思い出します(笑))。ヴィパッサナー実践をしている間、思考・妄想が減っていきます。最初は大変でしたが、歩く瞑想を1時間以上行うのに慣れてくると、かなりの時間、思考・妄想なしで、それでも普通に生きている、存在していることに気づけるようになります。すると、「考える」「思う」というのは、そうしたいからしていることがわかります(誰が? 「私」という実感を伴う五蘊というシステムが)。とういことは、そうしたくなければそうしないでいられるはずとういわけで、それでも存在することは知っているから、「我」を存在と捉えると、「我思うゆえに我あり」が嘘だとわかります。その一方、「我」を「私」とか「自我(アドレリアンなのに自我って言いたくないんですが(笑))」と捉えると、「思う」からこそその間は「私」なんてもののけが起動していることもわかるので、「我思うゆえに我あり」は、たしかに!、本当だとも言えるなぁと。


アドラー心理学では自我ではなく、心も身体も理性も感情もひっくるめて「個人」という全体が存在していると考えます。そういう意味で、やっぱり「我」はないと言ってるようでもあり、ひょっとしてアドラー先生も初期仏教パーリー経典(英訳版はあったし)読んでたんじゃないか、なぁんて想像しちゃったりします。瞑想はしてなそうだけど(笑)。でも、やっぱり仏教の「無我」と、アドラー心理学の「自我はないけど「個人」はあるよ」という主張は全然違いますね。混ぜるな危険!でした(笑)。


今日は相談について考えてみたいと思います。「相談」というのは、アドラー心理学がとても大事にしていることですね。というのは、普通一人で相談はできないわけで、相談する人と相談される人がいますよね。で、なんで相談するのかというと、何か解決したい課題があって、それがそもそも一人では解決できないことであったり、解決できるかもしれないけれど他の人に協力してもらった方がいいなと思うからです。だから「相談」というのは「協力」のお願いとも言えるし、相談という行為自体がすなわち協力でもあるんですね。


アドラー心理学は、人が不幸なのは競合的に暮らしているからであって、それをやめて協力的に暮らすことを選べば幸せになるという、ドグマ(笑)を持っています。そして、人は一人ひとり違う個性的な存在ですし、それぞれに違う目標、理想を持って暮らしていると考えているので、「これが協力よ!」と勝手に決めつけて押し付けてはいけないので、やっぱり協力的に暮らすためには相手と相談することが不可欠と考えています。


なので、アドラー心理学を学ぶと、相談の仕方をたっぷり学びます。そんなの水くさい!と思っても、ユダヤ人の世界、言葉を大事に、しっかり契約してから動かないと相手も自分にも生命の危険のある世界を生き抜いてきた知恵がバックボーンにある心理学なので、勝手に動かない、相談して合意してから動くのを大事にしています。


アドラー心理学を学ぶ前、相手のためによかれと思って、勝手にどんどん動いていって、それが功を奏したときに、ものすごく嬉しい人だった鍵野としては、その辺り、とっても苦手なところでした(笑)。


それで、最初のパセージ受講の記録から、相談にまつわるエピソードをご紹介したいと思います。

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<2018年6月6日>

娘(7歳、小二):(夜、宿題も終わってくつろいでいる)
         パパ~、児童館の日、作りたい
        (いつもの先生が一緒にいる児童クラブではなく、
         子どもが自由に遊ぶたけの場所としての

         児童クラブに行きたいと言っていた)

私:あっ、そっか。相談するって言ってたね

  (後で相談することになっていた)
  児童館行くの土曜日にしたら?

娘:ええ~(不満そうな顔)

私:だってさぁ、Rちゃん聞いてぇ

娘:(こちらを見る)

私:お父さんお仕事しないとさぁ、Rちゃんのご飯も、お家も、お水も、電気も、YouTubeも見れなくなっちゃうよ

娘:……(だまって聞いている)

私:お仕事してお客さんを助けてお金をもらわないとさ。Rちゃんが帰ってくる(児童館では預かってくれず自分で家に帰る)となったらお仕事お願いされても「すみません」て断らないといけなくなる。お客さんも困るしね

娘:お父さんお家おらんの?


私:いるときもあるけど… いないときRちゃん帰ったら誰もいないんだよ。お兄ちゃんもいないし…

娘:YouTube見とくからいい…(小さい声で)

私:大きくなったらにしようよ。お父さん、まだ心配

娘:……

私:ね、土曜日に児童館ってことで。土曜日はお家にいるから

娘:うん
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娘が事情をわかってくれて嬉しかったですが、相談してくれたこと自体が嬉しかったですね。パセージのおかげと思いますが、我が家では親からでも子どもからでもいろんな場面で「相談なんだけど」というフレーズがよく使われていたように思います。「お願いがあるんだけど」もよく使われていましたが、やっぱりちょっとニュアンスが違いますね。「相談なんだけど」の方がちょっと重い感じかな。いずれにしろ、理を尽くして説明して相互理解に達してから結論を出そうねということは大事にしていたと思います。今回の例は、結局「お父さん、まだ心配」と情に訴えてますけど(笑)。


そんな互いに相談を受けたり相談をしたりを繰り返していく中で、本当に重大な問題、それこそ生命に関わるような問題(治療方針の選択)も娘と冷静に話し合うことができるようになりました。息子とも中学生のころから将来のことや進学先など、冷静に真剣に話し合うことができました。娘のことも息子のことも、親の考え、持っている情報はしっかり伝えたうえで、最終的にはそれぞれ自分で選択してくれて、おかげでその結果に悔いは残りませんでした。アドラー心理学のおかげです。


これからも、相談したり相談されたり、みんなで協力しながら暮らしていきたいと願っています。


読んでいただきありがとうございます。

みなさまどうぞよい夜をお過ごしください。


生きとし生けるものが幸せでありますように。